故郷天草の魅力

今回は私の故郷「熊本県天草市」について、学生時代の話も交えながら紹介させてください。

18歳まで過ごした故郷天草

私の故郷は、現在は合併され「天草市」となった、合併前の「本渡市」という地域です。天草地方最大の人口を擁し、天草芦北地方の行政、商業、交通の中心地であった本渡市に18歳まで暮らしていました。

私は3人兄弟の長男で、高校時代は野球部に所属。丸刈り頭にジャージ姿の「オシャレ」とは無縁の生活を過ごす日々。

父は祖父が築いたタクシー会社を社長である叔父と一緒に経営。母も経理や事務を手伝っていました。今思えば、母は家業手伝いに家事に3人の子供の育児にと目まぐるしい毎日だったことでしょう。本当に感謝しています。

今年の年始に帰省したときには、初めて母と二人で温泉旅行に出かけ、久しぶりに親子水入らずでじっくりと話をする機会を持ちました。父はすでに他界しておりますので、母にはずっと元気でいてほしいものです。

大学では厳しいサークルに所属

子供時代の私のコンプレックスは「標準語が話せないこと」でした。

天草の外に出る機会は野球の遠征試合くらいでしたから、東京から従兄弟たちが遊びに来たときにも、彼らの話す標準語についていけず、ドギマギしたのを憶えています。

そんな言葉のコンプレックスを抱いたまま、福岡の大学に進学。
「天草の中ではそれなりに都会」だと思っていた地元が、とてつもなく田舎だということをイヤというほど思い知り、級友たちが博多弁を交えつつも標準語を話せることに焦りを感じつつ、学生生活がスタート。

サークルは「学術文化部会旅研究部」に所属。
とくに旅が好きだったわけではありませんが、サークル勧誘で「沖縄旅行に連れて行ってあげる」と言われたのが入部の動機です(笑)

入ってみると、実態は部員数120人もの伝統あるサークルで、厳しい規律についていけず最初は本当に嫌でした。

それでも辞めずに続けているうちに、最終的にはサークル内で4つあるグループのうちの1グループ「松田班」を取り仕切る立場となり、サークルの役員に。

役員ミーティングのときには「学ラン着用」が義務付けられていたり、飲み会のときには後輩全員に奢るなど、古いしきたりの残るサークルではありましたが、次第に友人も増え、いつのまにか言葉のコンプレックスも消え、楽しくも有意義な大学時代を送ることができました。

サークル時代に「人をまとめること」「リーダーシップ」のベースを学べたことは、私の大きな財産です。

天草は唯一無二の場所

さて、話を天草に戻しましょう。

みなさん「天草」と聞いて、最初になにを思い浮かべるでしょうか?

天草の海?イルカ?

「天草キリシタン」を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれません。

「天草キリシタン文化」は、天草に生まれ育った私にとって身近なものであり、小中学校時代には、学校行事の一環で市内の歴史資料館を幾度も訪れました。
ただ、「キリシタン文化」について興味を抱いたのは、実はごくごく最近のこと。

天草にはいくつものキリシタンに関する「歴史資料館」が存在しますが、その中には「キリシタン弾圧の悲惨さ」を伝えるものもあれば「キリシタン大名」や「キリシタン貿易」について伝える資料館もあり、その内容は様々です。

天草の「隠れキリシタン」は、観音様をマリア像に見立て仏教徒を装ったり、嫌疑から逃れるために、わりとあっさり踏み絵を踏んでいたという史実も残されており、「キリシタン文化」はあらゆる角度から検証されている文化なのだと、改めて興味を持ちました。

天草の魅力

天草には海も山もあり、新鮮な魚も地の野菜も美味しい魅力ある街なのですが、最大の魅力は、「どこにでもある場所じゃない」「独自の歴史を持つ唯一無二の場所」という点です。

大学時代もサラリーマン時代も、帰郷すると「ホッとする」という感覚を持ってはいましたが、ここ最近は、さらに故郷の天草に特別な思いを抱くようになりました。

高校の同級生の多くが天草市役所に勤めており、同窓会で彼らから地域活性に関する取り組みについて話を聞いたことも大きく影響しているかもしれません。

変化の激しい時代です。

時代の波に乗れず、衰退する産業も増えています。
一方で変化の激しい時代だからこそ、個人が何かを成し遂げやすいとも言えます。

私自身、サラリーマンを辞めたあとに八楽舎を立ち上げ、強く実感したことは、「大きな会社組織でなくとも、個人の力だけでも、大企業と対等に仕事ができる時代になった」ということです。

私が八楽舎創業で得た「スモールスタートでのビジネス構築ノウハウ」が故郷天草のさらなる発展に微力ながら役立てればと、地元で奮闘する同級生たちの力になれればと、最近は帰郷するたびに考えております。